映画ちいかわの感想と映画を子供とみる事について
ちいかわの映画を見に行った
いきなりだけど、私は同じ作者の作品なら「MOGUMOGU食べ歩きくま」の話か、「じいさんとアザラシ」の話の方が好きだ。
でも「世間で流行っているものと逆行して生きてばかりというのも面白くないな」と思ったので見に行った。
先に結論を書くと映画自体は面白かったけれど、親御さんは子供の疑問に答えるのに難儀しそうな作品だなぁ、と思った。
公式サイト:映画ちいかわ 人魚の島のひみつ このサイトにあるメインイラストからホラーを予想するのは無理がある。
冒険譚でもあり、ホラーでもある不思議な作風
まず演出面について。
基本的にちいかわ達は人のような「言葉」を喋らない個体の方が多い。だから「言葉」を話せるキャラである程度状況の説明だったりをしているのだけど、そうした「言葉」が無い状態でも表現や「声音」だけでも登場人物が考えていることが伝わったので演出がいいな、と思った。
特にセイレーンを無力化した後に、とどめを刺すべきか迷うシーンでは「島民たちはセイレーンに対して怒りの感情しかないが、自分たちの力ではとどめを刺すことができないので周囲をじりじりと詰め寄ることしかできない」という怒りと悲しみを堪えている島民たちの演出は見事だと思った。
他にも序盤にハチワレが歌う「今日の日はさようなら」と終盤に歌われる「今日の日はさようなら」は歌詞も曲調も全く同じなのに異なるニュアンスの歌として使われていて、前者は「楽しい島に来て良かった、明日も一緒に居ようね」という意味合いで使われていたけれど、後者は「本当にさようなら」という意味合いで使われている。ホラー映画かな?
次にストーリー面は、ちいかわ達の行動に絞ってみると「ひと夏の冒険譚」として成り立っており、島民とセイレーンに関する話を見るとサスペンス・ホラーとして成り立っている。この二つを同時に進めつつ違和感なくまとめているのは流石だなと思った。
冒険譚として見ると、ちいかわ・ハチワレ・ウサギがそれぞれ活躍しているところが良かった。ハチワレは師匠であるラッコ先生の言葉を思い出して窮地を脱していたし、ウサギは人魚がコーラス係であることから歌声に釣られることを思いつきコーラスの邪魔をすることでセイレーンの力を弱める起点を働かせていた。
ちいかわはセイレーンに追われている間にハチワレ・ウサギ、ヒトハ・フタバとはぐれてしまってもめげずに立ち止まらず友達を探し続けていた。恐ろしい森の中でたった一人でも決して諦めることなくみんなを探し続けた結果、島次郎と出会い、最終的に囚われの身になっていた友達とラッコ先生と食べられそうになっていた島民を助け出すことができた。
最後の激辛カレーをセイレーンに食べさせるシーンは「みんなが協力することで強敵に立ち向かう」構図となっており、まさしく冒険譚と言えるような熱い展開だった。
ちいかわの優しさというべきか、心の機微も観ていて良かった。
全てが終わって皆でキャンプファイヤーを囲んでいる時に、ヒトハ・フタバを見つけたちいかわは何かを二人に伝えようとするのだけれど、結局何も言わずに終わる。
ちいかわは喋らないキャラクターなので、ちいかわの気持ちは想像するしかないけれど、ちいかわの手元には「この島で何が起こっていたか」を推理するための材料はすべて揃っていたから、ここで何が起きていたのかちいかわには分かっていたのだと思う。それでいてヒトハ・フタバが震えながら手を繋いでいたのを見て、誰にも何も言わずに島を去っていく。それが正しい行動かどうか判断は難しいけれど、そこにはちいかわが持っている優しさが確かに表現されていたように思う。
一方で本作のもう一つのストーリーである「セイレーンと島民との関係」については先ほども述べた通りサスペンス・ホラーの要素が強く、低学年の子供向けっぽいポスターの割に刺激が強いかなと感じた。
恐らくちいかわ達のデザインが可愛らしくて低学年向けのように見えるけれどやっていることは「八尾比丘尼伝説+既に善悪だけで割り切れなくなった民族紛争」なので、そのギャップに違和感を覚えるのだと思う。
そんなセイレーンと島民の関係は先ほども述べた通り「サスペンス・ホラー」としても面白かった。
まずセイレーンと人魚が島にやってくる。巨大な怪物であるセイレーンを恐れた島民たちは、自分達が食べられないようにセイレーンへご馳走を振る舞う。
ちいかわ世界では「なんか強くてでかいやつ、通称でかつよ」は恐らくちいかわ族を襲って食べているので、セイレーンがなぜ島に来たかは兎も角討伐できるような武力を持ち合わせていない島民は身を守るために先手を打ったのだと思う。
ご馳走を気に入ったセイレーンは島の近くに居つくことになった。この時セイレーンの歌で作物が良く育つようになったという話が挟まるのでこの段階では「島民がセイレーンと人魚へ定期的にご馳走を渡す⇒その見返りにセイレーンが作物の育成を手伝う(本人は手伝う気は無かったかもしれないが)」という協力関係ができていた。
ただし、これは対等な関係ではない。
あくまでもセイレーンたちは「ご馳走が気に入った」から居ついているだけで、島民たちを特別気に入ったわけではない。
これは遊びに夢中になっていたとはいえヒトハ・フタバが乗っていた小舟に気が付かずにぶつかったこと、人魚を食べられてから島民に対し「人魚を食べた島民を引き渡せ」と聞いても島民たちが答えないので島民を躊躇なくさらいついでに食べていたことからわかる。
セイレーンが島民を気に入っているのであればこのような事は行わないだろう。
しかも人魚を食べるとお尻の辺りに「タンサン入れ」ができることをセイレーンは知っている。このため島民をさらった後はそれをチェックして違うならリリースすればいいだけなのだが、そのようなことはせず意趣返しのように島民を襲っては食べている。セイレーンにとっては島民は「ご馳走をくれるだけの存在」であって別に居なくなっても困らないと考えていたのだろう。
その一方でセイレーン自体は危害を直接加えなければ、あまり問題を起こさないタイプのでかつよである事も描写されている。
例えば初めてちいかわ達とセイレーンが出会った後に「島民と間違えて襲ってごめんね」と介抱しながら謝っており、島民を襲撃している理由を話して捜査の協力を依頼していたり、ラッコ先生と対峙するときも最初はラッコ先生の会話に応じようとしたりしていた。
これらの描写からセイレーンの攻撃対象は「人魚を食べた島民、それを庇っているように見える島民たちならびに新たに人魚を食べようとするもの」であることが分かる。
しかし島民からすると「何も知らないのに急にセイレーンが襲ってきて親類縁者が消えるようになった」という理不尽極まりない状態となっていた。理不尽な暴力にさらされてしまうのはあまりにも恐ろしい。
ここで問題になってくるのが事の発端となった「ヒトハ・フタバ」の存在である。
二人が乗っていた小舟にセイレーンがぶつかってしまい、結果フタバは重傷を負ってしまう。これを見たヒトハは以前読んでいた本で知った「人魚の肉」をフタバに食べさせることでフタバを延命させる。ところがフタバは「永遠の命」を持つ体となってしまった以上、自らが最終的に独りぼっちになってしまうことに悲観しヒトハにも「人魚の肉」を食べさせた。
こうして二人は共犯関係となってしまったのだけど、今度はセイレーンが島民を襲うようになってしまった。
島民に被害が出てしまった以上二人は島民へ事情を話すこともできず(話せば島民の安全のためにセイレーンに引き渡される可能性がある)、かといって島から出ることもできなくなってしまう。自分たちが出て行けば島民たちは全滅するまでセイレーンに食べられ続けてしまうからだ。
この「自己保身とその後ろめたさからただの島民として暮らす」という選択の結果、被害はどんどん拡大していってしまう。
この二人が島に居ながら自らの身を守るには、セイレーンを討伐するしかない。実際映画の中でこの二人は、他の島民と比べるとセイレーンの討伐に着たちいかわ達に対して身の危険を冒しながらも討伐に対して協力をしている。
二人が映画の最後でようやく島を離れたのは、もうセイレーンは「島民を」襲わないことが理解できたからだろう。
この二人(と最後のピースが揃った時点のちいかわ)以外は、セイレーンが言った「わかった」という言葉を「もう島民は襲わない」という意味でとらえていたが、二人はセイレーンの言葉を「犯人がわかった」というセイレーンの意図通りの意味でとらえていた。だからもう二人の身を守るためには島から出ていくほかなかったのだ。
事実だけみればこの二人が間違いなく犯人で禁忌を冒しているのだけれど、人魚の肉を食べさせた理由も理解できてしまう。それではセイレーンが全面的に悪いかと言われると、セイレーンからすればちいかわ族は取るに足らない存在でぶつかっても気にも留めるような存在として認識していない。
人間の体に羽虫が着いたから払いのけるように、明らかに生物としての考え方がちいかわ族とでかつよではズレていて、そこが映画を見る私たちからすると悲劇を生み出している。
またセイレーンが間違えて襲ったちいかわ達に対して行った行動を鑑みると、ヒトハがまず他の島民に事情を話し、セイレーンにも事情を説明していればセイレーンはフタバの事を助けた…かもしれない。
また、フタバの容体は人魚の肉が早急に必要な状態だったか?と言われるとすぐ食べられる刺身ではなくわざわざ煮つけとして食べさせているので、時間的にもまだ余裕があったように思う。
というか島の医者から匙を投げられたような描写すらないので、ヒトハが怨恨のために人魚を襲ったとも取れる。
このように「ヒトハ・フタバの行動は理解はできても正しいものなのか?」という展開にしていて、どちらが完全に悪かったのかわざとぼかしている表現にしているあたり、ホラーとしてなかなかうまい塩梅だなと思った。
……子供の疑問に答えなきゃいけない親御さんは大変だと思うけども。
子供に見せてもいいとは思うけど大人として説明するのが大変な作品ではある
この映画について子供に見せるべきではないという論調には少し思うところがある。
というのも私が初めてみたアニメ映画は記憶が正しければポケモンの「ミュウツーの逆襲」だったが、あれは低学年の子供が一見して理解できるようなテーマで作られていない。あの映画は今だと「自己存在の探求と自己の確立」というテーマだと判断できるけど、そんなものが理解できるのは早くても中学生くらいからじゃないだろうか。
それでも当時の私は娯楽アニメとして見ることができたのは、ポケモンの戦闘シーンだったりアクションが多かったりして飽きないように作られている点が大きかったと思う。それに後から思い返して「そういえば、あの映画はどうしてあのような展開になったのだろう……」と考え直すことで思索の幅が広がるのは良いことだと思うので、見せるべきではないという意見には「そうとは言えない」と思う。
ただし、PG12の映画(12歳以下の子供は親と同伴して閲覧し、親は子供に映画に対して説明を行う必要がある)として作られていることは大人として受け止めるべきだと思っている。
実際セイレーンと島民の関係について子供に聞かれたらどう答えるのが正しいのか判断が難しい。これは先ほども述べた通り、セイレーンと島民の関係はもはや単純な善悪で割り切れない状況に陥ってしまっているからだ。
しいて伝えるのであれば、危ない場所には近寄るな・自分より大きな生物に対して油断をするなという事くらいだろうか。
実際映画内でもフタバはセイレーンとコミュニケーションが取れていた=信頼できる存在だと考えていたからセイレーンが遊んでいた海域でも釣りをしていた。でもセイレーンからすると「島民が美味しいものをくれるから居ついた」だけであって島民に対して特別な感情は特に抱いていない。
その根本的なすれ違いが今回の悲劇の発端なのだからそこを上手く説明するのは大変だろうなぁ、しかも教育上問題ないうえで…。
これについては子供の疑問を聞いて、どうしてそう考えたのか、子供ならどうするか、といった風に会話をして互いに考えていくしかないと思う。
おわりに
そういうわけで個人的に面白い映画ではあったけど、子供に見せる際には気を付けたほうがいいな…という映画だと思った。映画館に行ったときは低学年くらいの子もいて、説明大変そうだな~と思った。世の中の親御さん頑張れ。
とりあえず私個人としては「じいさんとアザラシ」の短編アニメ化をですね……(ハァッ!?)
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