あなたはゲームをなぜ遊ぶのですか?


 我々はなぜ貴重な余暇を使ってまでゲームをするのだろう?現代人の余暇は様々な方法で削られていく。仕事、病気、家事、他者との交流、睡眠、食事、排せつ、清掃、etc etc…。そんな人としての活動の間に我々はゲームを遊ぶ。

 ゲームとは本来人間活動において不要なものである。そんなことをしなくても人は生きて行けるのである。なのに、いったいどうしてゲームを遊ぶのだろう?

 様々な理由が考えられる。「クリアしたいから(達成感を得たいから)」「友達と遊ぶため(連帯感を感じたいから)」「ストレスの発散(現実との対応のため)」「他のプレイヤーに勝ちたいから(勝利によるカタルシスを得るため)」「自分では想像もできない物語を読むため(知識の拡大)」…。ゲームというものはプレイヤーにとって様々な理由で遊ばれる。

 私なりの答えを出させて貰うと、ゲームをするということは「達成感を得るため」だと思われる。ゲームには始まりと終わりがあって、必ず終わりが来る。クリアという明確な目標があって、私たちはそれに向かって邁進する。現実の終わりのない(そして正解すらない)人生と比べると、ゲームというものは必ず始まりと終わりがある。ゲームをクリアすることによって我々は「一つのタスクを終わらせた」と感じて気分がよくなるのである。
 
 もちろん最近は「終わりのないゲーム」というものが増えている。ソーシャルゲームや箱庭交流系ゲームといった、サービスが続く限り終わらないゲームや癒しの空間として提供されるゲームである。だがそういったゲームにも小さなタスクがばら撒かれている。
 ソシャゲであれば「日課」と呼ばれる最低限のゲーム操作、箱庭交流系ゲームであれば自ら目標を設定して(あるいはゲーム側から提示されて)それをクリアする。これらによって「終わりのないゲーム」であっても達成感を覚えられるような仕組みがゲームにはある。

 それは現実ではなかなかに味わえない現象である。仕事であればプロジェクトの終了や決算が一区切りとなるのだろうけれど、達成感を得るまでに長い時間がかかる。半年?1年?「今自分がやっていることは、果たして報酬を与えられるに値する行為なのだろうか?」と思考の迷路が手招きをする。それほどまでに現実というものは、自ら設定でもしない限り達成感が乏しい世界となっている。

 昨日できたことは当たり前のように今日できなければならない。なぜなら昨日できているから。そしてそんなことができたからといっていちいち人は褒めてくれない。仕事も学業も、与えられた役割の中でやるべきことをやって当たり前なのだから、現実の上では達成感というものはどこか遠い存在のように感じてしまう。世の啓発本で「一日に一つ目標を設定して、それをクリアしましょう」などと文字が躍るのは、つまりはそういうこと…達成感の欠乏を回避するためなのである。

 対してゲームというものは違う。少なくとも最近のゲームは細かくプレイヤーの操作をチェックし、うまくできたら過剰なまでに褒めてくれる。古くはゲームをEDまで迎えたりだとかステージをクリアしてようやく達成感を得られたものが、今では各チェックポイントをクリアした時の実績や上手に操作できた時にプレイヤーが気持ちよくなるような美麗な映像が挟まるなどといったようにして、ゲームはプレイヤーを褒めて、認めて、称賛する。

 ゲームというのものは「クリアに挑戦するもの」から「クリアは当然でプレイヤーを気持ちよくするためのもの」に変質していった。

 もちろん今やそんなゲームばかりでないことは皆さんはもうご存じだろう。高難易度のアクションゲームとして名高い「DARKSOUL」シリーズを皮切りに「高難易度でプレイヤーを突き放すような」ゲームがリリースされるようになった。しかしそれらのゲームも「達成感」という名の快楽物質が生み出されるような工夫が凝らされている。

 高難易度のゲームであってもプレーしてくれる人が居なければ商売にならない。昔と異なり娯楽に溢れた現在社会ではゲームというものは余暇を過ごす際の数ある選択肢の一つとなってしまった。そのためゲームはクリアのためのヒントを示す。あるボスは攻撃後に隙が生まれるぞ、あるダンジョンは装備を整えればクリアが容易になるぞ、といったように。

 ゲームから与えられた情報から手さぐりに攻略方法を見出し、それが成功するまで挑戦する。高難易度ゲームというものはそのようにして達成感を生み出していく。昨日できたことが今日できることでゲームというものは「道中の操作が楽になった」「ボスを簡単に倒せるようになって報酬を手に入りやすくなった」というようにして現実よりもはるかに短期間で「達成感」というものを埋めてくれる。

 つまり私は「達成感」という快楽を現実と比べてはるかに短時間で与えてくれるゲームという存在に縋るために、ゲーム機の電源を、PCの電源をONにするのである。

 これが私なりの「なぜゲームを行うのか?」に対する回答である。すべては現実で得難い「達成感」という名の報酬を受け取るために私はゲームを喰らい、しゃぶり、舐めつくしていくのである。

Getting Over It with Bennett Foddyのクリアに寄せて


さて、ここに一本のゲームがある。



 いわゆる苦行ゲームの皮切りとなった作品である。「壺」とか「壺おじ」とか呼ばれている、ストリーマーがまず遊ぶゲーム(勝手な印象だが)として有名だろう。

 このゲームでは「壺に入ったおじさん(ディオギネス)が持つハンマーを使ってよくわからない山を乗り越えていく」というゲームだ。見た目は奇抜だが、やることは「プレイヤーキャラクターをゴールまで運ぶ」といたってシンプルなゲームスタイルが取られている。

 ダウンロードして初めてハンマーを動かしたとき、おそらく多くのプレイヤーがこのおじさんを動かすことが容易ではないことに気が付くだろう。最初に表示されている枯れ木を越えることすらままならない場合だってある。

 ゲーム内に操作のヒントというものは存在しない。プレイヤーは「自分が操作してその結果を見て」操作方法に慣れていくしかない。どうやってクリアすればいいか、プレイヤーは手さぐりで進めていくしかないのである。

 このゲームには上に登っていくにつれ安全地帯というものが存在する。つまり、ある程度進むとそこからさらに下のエリアには容易に落ちないようにセーフティーが敷かれている。…これはもちろん操作に慣れた人間からの視点である。おそらく初めての人にとっては独特な操作感のせいで、プレイヤーキャラクターである壺おじがあらぬ方向へ飛んでいき…セーフティーゾーンを飛び越して最初の場面に戻ってしまう。そんなことはざらにある。

 ハンマーをひっかけるための床は、ある場所は異常にツルツルと滑るのに、ある場所は妙に引っ掛かりが良いなどバリエーションがあるのだが見た目からは全く分からないのでプレイ中は手さぐりでハンマーの置く場所を決めて進めていくしかない。

 プレイヤーは自分の操作ミスで進捗が大きく戻されるという恐怖と闘いながら、無茶苦茶なモデリングの山を登っていく。当然マップなんてものは存在しないので、「この道で会っているのだろうか?この方法で正しいのだろうか?」…そんな疑念と闘いながら山を登っていく。やり直しはゲームだからいくらでもできる。これは現実の登山ではないから、どれだけ高いところから落ちてもおじさんがうめき声をあげて終わりである。

 しかし「進捗を大きく戻された」というストレス、「また登れるかわからない山を登らないといけない」というストレスがこのゲームから与えられる。このゲームをプレー中に発狂した、なんて話を聞くけれど、それはそうだよな。と思う。終わりが見えないのは現実と変わりがない。しかもわけの分からない形の山を(途中からごみ山としか呼べないようなステージも存在する)、どこまで、どうやって進めばいいのかわからない状態で進んでいく。これは苦行と呼ばれても仕方ないだろう。

 それでも私はこのゲームが好きである。その理由としてはこのゲーム内で進捗状況に合わせて話されるナレーションの存在が大いにある。

 ナレーションは最初のステージではよくわからないことを口走る。やれ「やり直しはやり始めるよりつらい」だの「このゲームの発想元となったゲーム(Sexy Hiking)についての見解」だの「ゲームに対する作者なりの哲学」だの…。攻略のヒントとなるようなことはナレーションは一切語らない。(私はこのナレーションを聞きすぎてチェコのイメージが「Sexy Hiking」というB級ゲームが生まれた地というので完全に固まってしまっている。)

 ナレーションはインターネット文化についても見解を述べる。インターネットではコンテンツの多さからすべてのものが一瞬で消化され、そして興味を失われる。ゲームに対してもそうで、多くのゲームは配信者というプラットフォームによってプレーされ、ゲームをプレーせずに終わる視聴者勢の存在についても言及が行われる。

 彼は「それすらも文化だろう」と述べ、そしてプレイヤーに対し「本当に今これをプレーしてるの?ゴミはゴミ箱に捨てられてしかるべきなのに」といったようなことすら話してくる。必死になってハンマーを振り回してようやく半分のところまでたどり着いたところで「こんなゲームを遊んでるの?」と煽る様はもはや痛快ですらある。ナレーションはこのゲームをクリアすることはできないだろうと、プレイヤーを信頼していないのである。ゲームはプレイヤーに寄り添うものではなく、突き放すものだとでも言わんばかりに。

 このナレーションののち、おそらくこのゲームで一番の難所である「みかんゾーン」が顔を出す。ここで何人のプレイヤーが涙したのかは想像に難くない。それほどまでに難しいゾーンなのである。ここで落ちればまた何分(あるいは何時間)もかけて「みかんゾーン」に挑まねばならない。

 「みかんゾーン」はタネが分かればどうってことのない場所なのだが、その見た目から「どこにハンマーをかけるべきなのか」すら分からないような場所となっているため、慎重に慎重に手さぐりでハンマーを置いていくことになる。ミスすればまた登り直しとなるのが分かり切っている―やり直しという苦痛を味わいたくない―のだから。

 実際、この部分を作者はこのゲーム最大の難所として置いているようで、「みかんゾーン」クリア後のナレーションはどこかプレイヤーに寄り添ったものに変化していく。特に雪玉地帯に訪れた際の「ここまであなたが来てくれたことが私に対する最大の賛辞です」という言葉は印象深い。

 ラストから2番目のステージでナレーションはプレイヤーついて見解を述べる。

ここでいう、プレイヤーについて考えたことはありますか?壺の中のディオギネス?彼の手?ハンマーの先っぽ?どれも違うでしょう。あなたの思うところにハンマーは動かず、あなたは彼の意思、先へ登るという彼自身の意図なのです。

 

 この言葉を聞いた瞬間(おかしいかもしれないが)私がゲームに認められたような言い難い感動を覚えた。私がゲームをプレーするのは「達成感」を得るためである。しかし、ゲーム内で賛辞を贈られるのは主人公というキャラクターになる。そのキャラクターを動かしている「私という存在」はゲームによって覆い隠され、まるでなかったように扱われる。第4の壁を越えてプレイヤーを賛辞するゲームは本当に少ない。(そうすることはゲーム内のリアリティが失われてしまうからなのだが)。


 このゲームはプレイヤーというものを真っすぐに見つめてくれているゲームなのだ。それだけで私の苦労は報われたように感じた。何度も落ちた時の謎の哲学的な言葉も、残念がる言葉も、すべて壺の中のディオギネスではなく最初からプレイヤーに対して投げかけられていたのである。


 このゲームのタイトルは「Getting Over It with Bennett Foddy(ベネフィット・フォディと一緒に乗り越えよう)」。これは苦行という道中を…ゲームをクリアするだけだったかつてのビデオゲームのように、ゲームという挑戦を乗り越えたプレイヤーに対する賛辞を内包しているゲームなのだ。


他に気に入っている点として


 他の苦行ゲームと違って、このゲームはかなりユーザーフレンドリーにできている。セーフティーゾーンの存在、そもそも操作さえしなければプレイヤーは動かないなど…アクションゲームが苦手な自分にとってこれらの要素に大きく助けられた。

 クリア後の実績として「2回登った」と「50回登った」があり、クリア後のプレイヤーはその実績の解除のために挑戦をするのだが(実績取得率からしてそうでないプレイヤーのほうが多いようだが)そのうちに登頂までのタイムアタックを楽しむような作りになっている。

 このタイムアタックは特に全プレイヤーとのタイム争いといった要素ではない。過去の自分とのタイムアタックになる。このゲームは登頂後に今回のプレーで登頂完了したときの時間が表示される。プレイヤーはそれをみて次はどう登れば早く登れるだろう?と試行錯誤し過去の自分を超えるという目標が設定できる。

 アクションゲームというものは人によってプレー時間が大きく変化する。うまい人はさっさとクリアするし、そうでない人はもっと時間をかけてクリアする。人は自己と他者の比較をどうしてもしてしまう生き物のため、上手なプレイヤーの動きを見せられると自分がどうしても惨めに思えてしまうものである。

 このゲームでは今回の登頂にかかったタイムだけを載せるという構成によりプレイヤーは上手なプレイヤーとの比較ではなく「過去の自分を越える」という新たな目標設定をすることができる。そしてそれを超える…その時の達成感を得るために今日もまたハンマーを振るうのである。これはなかなか上手い作り方だなと思う。

 現在の最高記録は11分。10分切りを目指したいところだ。