以下の文章に、私は意味があるとは思えない。単なる思考のカケラに過ぎず、これに対して意味を見出す事はできない。

 

 ただ、暗い話を取り扱っているのでその辺が嫌な人は読まなくていい。こうした文を残しているのは、単純にこのブログをもっと使いやすいようにしたいから、ただの散文を載せることにした。

 

 時折、というかふとした瞬間に「死んじゃった方がいいな」と考えることがある。魔が差す、というようにスッとその言葉が頭の中をよぎるのだ。そうなるとしばらくは嫌な気持ちになる。


 実際のところ、自分が死んでしまった方がずっとずっといいと考えているのだけど、そうした事はもう実行できない。それは金銭的な問題もあるし、残された人(こういう風に書くのは本当に嫌なのだけど)の心理的な問題もある。


 身近な人が自死を選ぶ、実際どうして死を選んだのかは本人にすら分からない。論理的に考えれば、生存して社会貢献(就労であれ、家事であれ)をした方がよっぽど周囲の人にとって楽な事はない。「死体を片付ける」事は時間も、金も、心理的な労力もかかる。


 そんなことをいうと眉を顰める人もいるかもしれないけれど、自分という存在をどうにも許すことができない人間にとって生きていかなければならないというのは本当に辛いことなのだ。だから私にとって私の死体は「片付けられるモノ」として扱うのが正しいと信じてやまない。


 しかして、それも他人からすれば知ったことのない感情であり、考えである。だからまぁ、「死体を片付ける」と私が書いて眉を顰める人がいても仕方ないと思う。


 その人たちにとっては「死んでほしく無い人が死んでしまって、悲しかった」、だから「死」について触れる際に、それを自ら選ぼうとする人間を見て眉を顰めるのだろう。なぜわざわざ自ら死ぬ必要があるのか。世の中にはもっと楽しいことがある、死以外の方法があるだろう、と。


 私も半分くらいはそう思う。死んで何になるのだろう。私という生命の活動が終わって、それで…意識が無くなって、残されたのは死者の残した死体と残留物だ。そうしたものを日本の法律上…民法だけど、血縁関係のあるものは可能であれば処分しなければならない。だから私は「死体を片付ける」と書いた。


 死者は何も語らない。なぜ死んだのか。なぜ死を選んだのか。饒舌な遺言書を書いたところでその疑念が残された人間から晴れる事は無いだろう。


 人は身近な人間が行う行為について、なぜそのような事をしたのか?と推論するようになっている。だから自死を選ぶと言う行為に、人は何かを見出す。見出そうとする。もしも私が論理的だと思った遺書を書いたとして、そうして自殺を選んだとして、血縁者からしたらその遺書は「どうしてそれを死ぬ前に言ってくれなかったのだろう」という罪悪感の素になる。


 私は身近な人にそうはなってほしく無い。


 ただ単に「あぁ、死んだのか」という風に無味乾燥に受け取って淡々と処理をして欲しい。ニュースで流れる見知らぬ誰かの死亡者のニュースを聞き流すように、淡々と。


 でも血縁者という事実が、そうはならないだろうな、という予感を生じさせる。どうしてこの世の中は感情というものが残っているのだろう、と考えたりもする。それさえなければただの不良品が壊れたとして処理されるだろうに!でもそうはならない事を知っている。


 感情というものが今まで残ってきたのはそれが社会生物として生きていく上で重要だったからにすぎない。人間という生物が生きていく上で必要だったから今まで残っていた。ただそれだけに過ぎない。そうして残った感情は脳によって発生する。脳の中身は人によって異なる。だからこんな暗い気持ちを考える人間が産まれても仕方ないのかもしれない。


 そして私は「うつ病」という診断を受けている。だからと言ってそれが本当に正しい事なのか全く分からない。「うつ病」だと診断を受けたとしても、それが本当に「うつ病」なのか数値的に分かるものは何一つ無いのだ。


 少なくとも今の所は医者の診断によって「うつ病」かどうかが決まる。インフルエンザや骨折のように分かりやすい(医師以外が見ても)マーカーはどこにも存在しない。もしかしたら私はただ暗いだけの人なのかもしれない。「うつ病」というものははっきり言って「プロが診断したからそうなのだろう」という、限りなく頼りないもので判断が行われる。


 実際、精神科医も目の前の患者が本当に「うつ病」なのか判断に困る事もあると聞く。研鑽を積んだ医師ですら判断に迷うのだから、シロウトの私が「自分はうつ病と診断されているが、それは間違っているのでは無いか?ただの不良品だからじゃないか?」と思うのも、仕方のない事なのかもしれない。


 結局のところ、私が自殺する事は無い、と思う。何度でも書くが、自殺をすれば周囲に迷惑が掛かる。ただですら生きているだけで迷惑をかけているように思うのに、死んでもなお迷惑をかけるのはごめん被りたい。本当は、自殺して、ただ淡々と処理されるといいのだけど、そうならない事を経験則から知っている。


 どうしてこんな事を考えるようになってしまったのか、理由を探しても恐らく出てこないだろう。単純に脳の働きが悪くなって、暗い気持ちになっているだけかもしれない。今は茹だるような夏の暑さだ。カミュは「異邦人」で主人公が殺人を犯した理由を「太陽が熱かったから」と表した。私の死の渇望も単に「太陽が熱かったから」引き起こされただけなのかもしれない。