すっかりと秋めいた(日差しは相変わらず熱いのだが)空気となった道を歩いて、しょうもない話を思い出した。


 あれは某所で働いていた時の事。ちょうど今のような季節だったように思う。私はオフィスの中でいつものようにPCの前に座ってタスクを淡々とこなしていた。こなしていたつもりだった。実際の所、頭の中では偏桃体が発する危険信号がガンガンと鳴り響いて、ただの物音にすら脳内で反応するありさまだった。でも多分、周りからはそんな風に脳内がおかしくなっているとは思われていなかったと思う。特に何か言われたりしなかったからだ。勿論、自分の事は放置されていたのかもしれないが、今更になって確認することはできないし、それを知ったところで何が起きるわけでもないのでどうでもいい。


 私はキーボードに文字を入力しながら「死のう」と考えた。何百回と考えた3文字だが、その日は現実味を増していた。死ぬ前におむつと大きいゴミ袋を買っておかないといけない。恐怖心をごまかすための強いお酒も必要だ。ロープはすでに家にある。さしあたって買わなければいけないのはおむつだろう。高齢者向けのおむつが駅前に売っていたはずだ。ゴミ袋は多分、残っていたはず。酒はコンビニでストゼロを適当に買えばいいだろう。


 キーボードのカタカタという入力音が偏桃体の発する危険信号を上書きしていくように頭の中で響く。カタカタという音に合わせて自分が死ぬことを考える。どうやって死ぬか。遺書の内容はどうするか。死んだら家の資産価値が下がっちゃうな。貯金で賄えるだろうか。今は寒くなってきているからすぐ腐っちゃうことはないだろうけど、いったいどれくらいで人は腐り始めるのだろう…。自分が腐っていくたびに資産価値が減っていく。目減りしていく資産価値と私の価値はどうにも釣り合っていないように思うのに(もちろん私の方が下だ)、人がそこで死んだというだけで部屋の資産価値は減っていく。奇妙な相関関係。


 ふと、海が見たくなった。長い間見ていなかった海。死ぬのは別にそれを見てからでもいいんじゃないかと思った。今に思えば防衛本能のようなものだったのだろう。思い出の中できらきらときらめく水面が脳裏にさっと広がった。その瞬間私の興味はそっちに向き始めた。健全じゃないか。感心感心!ここから海を見に行くなら休日を待つしかない。


 休日になったら海に行こう。死ぬのはそのあとだって別に悪くはない。


 休日になった。重い体をなんとか布団から引きだして、寝る前に調べておいた「海が見えるサイクリングコース」に向かう。サイクリングなのは、もうすっかり鳴りやんだ危険シグナルが作り出した残り香のような「死のう」という言葉を振り払うのは歩くよりも自転車の方が良いような気がしたからだ。「死のう」という言葉は相変わらずまとわりついていたけど、海に向かう電車に乗っている間、イヤホンから聞こえる電子音の事を考えて聞こえないふりをした。「死のう」という言葉は電子音の中に存在しない。音楽を聞いている間は(あるいはまったく別の感情がこもった歌詞を追っていたら)、何も考えなくて済む。


 目指していた場所について、コンビニで水とサラダチキンを買った。いつもの昼食と全く同じ。でも今回は違う。秋晴れした天候はオフィスの天上より高くて水色がどこまでも続いている。自転車の鍵をレンタルして、数十年ぶりになる自転車に乗る。最初はゆっくりと、徐々にスピードを上げていく。風を切って走ると気分がいい。これはアドレナリンだとか、運動をしたときに出てくる脳内物質と運動による血の流れが良くなっているからそう感じているにすぎない。それでもその時は楽しかったように思う。運動場のようなサイクリングコースを数周して体が慣れてきたころ、スマートフォンで地図を開いて海沿いに出るコースを確認する。自転車をこぐのは大変だし疲れる。それでも、その先にあるのは海だ。海がそこにあるはずだ。海を見た後自分がどうするかどうでもよくなってきていた。カウントダウンのように「海岸線まであと数m」という看板が通り過ぎていく。海を見た後やっぱり死ぬのかな。そんな言葉も一緒に通り過ぎていく。


 海岸線のそばには休憩スペースとして屋根付きのベンチが置かれていた。ちょうどいい。自転車を止める。朝早く来たというのもあるのだろうけど、海からの風がびゅうびゅうと吹き付けてくるので休憩している人は誰も居ない。途中何人かの自転車ランナーとすれ違った。みんなスポーツ用のギアを身に着けて記録に挑戦しているようにスッと走り去っていった。休憩を取る人が少ないのは私としては嬉しかった。どうしても感傷的な気分というものは自分一人で飲み込むほうがいいと思っていたし、他人が居るというのは当時の私としては恐怖でしかなかった。まぁ、とにかく誰も居ない休憩スペースに座り込んだ。このセクションが言いたいことはこれだけだ。


 コンビニで買ったサラダチキンと水を義務的に胃に流し込んだ。足はどうして自分を酷使するのかと抗議するようにジンジンとした痛みを発していた。両方の太ももとふくらはぎをごつごつと殴った。足はしばらく黙ることにしたようだった。それでいい、今から海をのぞき込みに行くのだから、少し黙っていて欲しかった。


 そうして海をのぞき込むと、灰色と赤色が混じったような色をした水が辺り一面に広がっていた。すぐそばの水から目を離して遠くの方も目を凝らしてみてみる。濁った水がきらきらと光っている。水平線との境目でちょうど綺麗に水と空の色が変わっている。空はどこまでも秋晴れで、青くて水色だ。海はどこまでも灰と赤が混じったような水彩絵の具筆を洗い続けたバケツの中の水のような色をしていた。


 なんだかバカバカしくなった。水を見つめている間、「死のう」という言葉も、膨らんだ期待も、なんだか気まずそうに鳴りを潜めていた。結局その日は自転車に乗ってコースを周回した。途中広場で音楽隊のような人たちがライブを行っていた。それもどうでもよかった。レンタルした自転車を返却し、イヤホンで音楽を聴きながら家に帰った。諸所の作業を終わらせた後、酒を流し込んで眠りについた。疲れていたせいか、酒のせいかよくわからないがその日は直ぐに眠ることができた。


 私はオフィスの中でいつものようにPCの前に座ってタスクを淡々とこなしていた。こなしていたつもりだった。実際の所、頭の中では偏桃体が発する危険信号がガンガンと鳴り響いて、ただの物音にすら脳内で反応するありさまだった。でも多分、周りからはそんな風に脳内がおかしくなっているとは思われていなかったと思う。特に何か言われたりしなかったからだ。勿論、自分の事は放置されていたのかもしれないが、今更になって確認することはできないし、それを知ったところで何が起きるわけでもないのでどうでもいい。


 私はキーボードに文字を入力しながら「死のう」と考えた。何百回と考えた3文字だが、あの時見たきらきらと輝く濁った水を思い出して、その日はただの3文字のように思えた。結局あの日以来、しばらく希死念慮は身をひそめることにしたようだった。失敗するのはそれからもう少し経ってからになる。